■2005年2月11日【えがりて浦和記録誌への原稿「女性問題は人権問題である」】
標記のことばを旧浦和市の職員の口から聴いたのは、何年前になるのでしょうか。
旧浦和市の市議会で、私が初めて議員として活動を始めたのは1991年(平成3年)でした。その頃は、婦人問題の担当職員は婦人係一人。婦人問題懇談会という市長の私的諮問機関があって、市に対していくつかの提言を出していました。私はその提言書を見せて欲しいと要求しましたが、拒否されました。結局見せてはもらいましたが、書き写しはいいが、コピーはだめと言われ、書き写し始めたのですが、だんだん腹がたってきて書くのをやめた記憶があります。
当然のことながら、このことを議会でとりあげました。そして、(市長が女性政策の課を新設すると言っていたので)課の新設にあたっては、懇談会を審議会に改組し、委員も公募の市民をいれるべきではないかと、一般質問しました(91年12月議会)。翌年の92年(平成4年)に課に相当する女性政策推進室ができ、審議会も要綱でなく条例設置で、女性政策推進協議会(審議会)が設置され、浦和市初の市民公募委員も誕生しました。現在では情報公開制度もあり、審議会等の傍聴もできるし、会議録も公開され、審議会に市民公募の委員が入ることも当たり前になりました。市の基本的政策や重要施策の計画策定過程において、市民の意見を反映させる仕組みのパブリックコメント制度もできています。
おおげさな言い方になりますが、十数年前のことを思い出すと、よく進歩したなぁと感無量になります。当時の浦和市議会は44名の議員で、その内女性は3人(共産党2、無所属1=私)です。少なかったですね。女性政策(いまは男女共同参画と言われてますが)が、市の政策の中で居場所が与えられ始めたこともあり、女性問題を女性政策として取り上げる議員は、私ぐらいしかいませんでしたので、議会での一般質問では毎回取り上げていました。
女性職員のお茶汲みの廃止、女性行動計画、女性センターなど、現在はどれも当たり前になっていますが、当時はどれも新しい市の行政課題で、ルーチンワークの行政の事務で対応できるものではありませんでした。女性政策を市の行政課題として取り上げていくには、縦割りでなく横割りで、他の部局・所管の事業をチェックしていかなければなりません。担当になった職員は、苦労したのではないかと思います。
旧浦和市の女性行動計画である「うらわ男女平等推進プラン」が、95年(平成7年)1月に策定され、男女共同参画がまちづくりの重要課題であることが市として明確化されました。このプランには、女性に関する施策・事業が網羅され、ランクづけがされており、進捗状況のチェックと実効性の担保がされています。私はこのプランを読み込む中で、浦和のまちづくりや、他の行政施策の状況などをかなり学ばされた気がします。
浦和市が3市合併によりさいたま市となり、「さいたま市男女共同参画のまちづくりプラン」が策定され(04年3月)、女性政策も定着してきているようです。ジェンダーフリーに対するバッシングやバックラッシュ(揺り戻し)などが、起きていますが、私は大きな流れとしては、男女共同参画の流れは進んでいくと思っています。ある種のイデオロギーで男女平等(共同参画)を止めようとしても、社会的経済的な時代の流れは、男も女も共に・平等に社会に参画していくことなくして進歩できないところにきているのだと思っていますので。
とはいえ、女性の参画状況、社会的地位はまだ低く、女性自身が力をつけるエンパワーメントをもっと発揮していかないと、社会構造はなかなか変わっていくことはないでしょう。私自身で言えば、現在は女性政策そのものを運動として取り上げ活動しているわけではありません。私の現在の議員活動は、今までの活動・運動、議会での取り組みの上に立っているものですし、さいたま市政をより市民自身のものとする協働の追求は、男女共同参画ともつながっていると思っています。活動のステージは変わっていきます。女性の力がさまざまな場で発揮でき、男女共同参画や平等を敢えて口にしなくてもすむような社会にしていきたいですね。
「女性問題は男性問題でもあり、人権問題でもあると聴いて、女性政策の何たるかが分かりました」と、前述の職員の方が言っていました。人権という視点で他の政策課題も見ていくと、共通する行政課題も見えてくると思います。